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ストーリーの構成文化財 観世音寺・戒壇院

【国史跡(観世音寺境内及び子院跡附老司瓦窯跡)
国重要文化財(彫刻)
県有形文化財(建造物・工芸)】
母斉明天皇の追善のため天智天皇の発願で建立された寺院です。周辺に49の子院があったとされ、伽藍を示す礎石等が残り古代の繁栄を示しています。当寺には大陸由来の舞楽を行う楽団を備えており、陵王、納曽利の面(国重要文化財)が現存します。また落慶法要を行った玄昉の塚が残っています。鑑真・空海も滞在し、授戒もこの寺で初めて行われたとされ、天下の三戒壇の一つとなりました。戒壇院には戒壇が伝わっています。安置される16躰の諸仏(国重要文化財)は平安~鎌倉時代の洗練された造像で、仏教文化が継続して伝わっていたことを示しています。現在も同地で観世音寺(金堂、講堂は県有形文化財)・戒壇院(本堂、鐘楼、鐘は県有形文化財)として法灯を伝えています。

観世音寺の画像

観世音寺

 百済(古代朝鮮三国の一つ)は日本と交流が深かった国でしたが、660年に滅亡しました。その復興救援に向かった斉明天皇は、661年、筑紫(福岡)で亡くなります。その供養のため、子の天智天皇が発願した寺院が、観世音寺です。
 創建は7世紀後半ですが、その完成には80年あまりの歳月が流れ、746年に伽藍完成の供養が行われました。761年には、僧に授戒をする「戒壇院」も設けられています。
 観世音寺は「府の大寺」とよばれ、西海道(九州)の仏教寺院の頂点となる大寺院でした。ここに集まった先進文化の数々を、今も見ることができます。

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  • 観世音寺 宝蔵の画像

    観世音寺 宝蔵

     観世音寺境内の東に作られた、校倉造に似せた収蔵庫です。
     宝蔵に入ると、高さ5mほどの彫像が並ぶ様子に目をうばわれます。これらは平安時代~鎌倉時代に造られたもので、国の重要文化財に指定されています。

     最も古い彫像は、階段を上がるとほぼ正面にある「兜跋毘沙門天立像(とばつ びしゃもんてん りゅうぞう)」です。9世紀の像で、異国風の鎧をまとい、地天女と二鬼に支えられたこの毘沙門天は、唐の西域の国「兜跋国」に現れた毘沙門天とされ、国土を守る仏とされています。これと同種の像が、京都・平安京の朱雀大路の南端にあった羅城門(京へ入る正門)に置かれていました。このためこの像も、もともと古代都市・大宰府条坊の「羅城門」に置かれていたとする説が有力視されています。

     展示ケースには、創建瓦も収蔵されています。観世音寺の創建瓦は、奈良・明日香の川原寺(飛鳥四大寺の一つ)や藤原宮(694-710年の宮殿)といった、7世紀末の天皇にゆかりのある施設に使われた瓦の系統をもっています。これは現在の堂舎には使われていませんが、境内から多くの創建瓦が出土しています。

     観世音寺には、もとは大陸に起源をもつ「伎楽」の楽団が置かれていました。686年、「新羅の客人をもてなすため、川原寺の伎楽を筑紫に運んだ」と『日本書紀』に記されており、これが観世音寺に引き継がれたとみられています。905年の『観世音寺資財帳』には、「旧伎楽」「新伎楽」それぞれの用具の状態が具体的に記されています。この伝統は後にも続き、「舞楽面」が伝わっています(鎌倉時代~南北朝時代、国の重要文化財)。

    ​ このほか、新羅の影響を受けたとされる文様塼(レンガ)や、宋風獅子像(国の重要文化財)など、国内外の文化交流を示す文化財が数多く収められています。

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観世音寺 梵鐘の画像 観世音寺 梵鐘の画像1

観世音寺 梵鐘

観世音寺の梵鐘は、「戊戌年」(698年)、「糟屋評」(現在の福岡県粕屋郡)の銘がある京都・妙心寺の梵鐘と兄弟とされる7世紀末のものです。これらの梵鐘は同じ鋳型で造られたとみられており、妙心寺の梵鐘は洗練され完成された形であるため、観世音寺梵鐘の方がより古いと言われています。歴史書『日本書紀』には、682年に筑紫大宰・丹比嶋が大鐘を貢上したという記事もみえ、観世音寺の鐘を指すと考える人もいます。
 観世音寺の鐘の音は、大宰府に左遷され、「府の南館」に住まう菅原道真の耳にも聞こえていました。家を出ることもできなかった道真は、漢詩「不出門」のなかで、「都府楼はわずかに瓦の色をみ、観音寺はただ鐘声を聴くのみ」と詠んでいます。

 1300年余の大宰府の歴史を見守ってきたこの鐘は、いまも現役の鐘です。日本には大みそかには除夜の鐘をつき煩悩を払う、という行事があり、この鐘をつくため多くの人が訪れます。

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戒壇院の画像

戒壇院

 僧が守るべき道徳規範や集団規則を「戒律」といい、これを受ける儀式を経て、僧尼と認められました。
 戒律は、聖武天皇に招請され来日した唐僧・鑑真によって伝えられました。鑑真は失明しつつも、6度目の渡航でようやく日本へ渡りました。そして、京に向かう途中、観世音寺を訪れ、753年12月に日本で初めての授戒を行ったのです。
 761年、観世音寺に戒壇院が、西海道(九州)の授戒の場として設けられます。東大寺(奈良)、下野薬師寺(栃木)の戒壇院とともに、「天下の三戒壇」と呼ばれました。

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    本堂

     戒壇院の建物は、905年の記録や古絵図から、東西に細長い正堂と礼堂の二棟が並んでいたとみられ、1148年の記録には、戒壇院の柱間は5間と記されています。
     その後の戒壇院は衰退し、1668年に博多の聖福寺・承天寺・崇福寺のもとに禅宗寺院として再出発しました。現在の本堂は1680年に再建されたとされる、禅宗様の建物です。

     本尊は、奈良の東大寺大仏と同じ、盧舎那仏です(国の重要文化財)。12世紀の制作とみられ、手のひらを外に向けて説法を行う姿をしています。
     本尊の両脇には、文殊菩薩像(向かって右)、弥勒菩薩像(向かって左)が立っています(太宰府市指定文化財)。いずれも江戸時代の制作で、京都の仏師によって制作され、ここで仕上げられました。このころ、梵鐘(福岡県指定文化財)、木造鑑真和上像(太宰府市指定文化財)、観世音寺とゆかりのある弘法大師(空海)像なども制作されました。

    ​ 中央の段が受戒の場となる「戒壇」です。ここに天竺(インド)、唐(中国)、奈良(日本)の土を納めたと伝えられています。

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玄昉の墓の画像

玄昉の墓

 観世音寺境内の北西に、僧・玄昉の墓と伝えられる石塔があります。
 玄昉は、遣唐使とともに唐へ渡り、18年間過ごしました。唐の玄宗皇帝に認められ、三品に准じて紫の袈裟を下賜されています。
 735年に帰国し政権の担い手となりますが、反感をかいました。彼らの排除を求めて大宰府で反乱を起した藤原広嗣は、捕えられ殺されます。
 745年、玄昉は観世音寺造営の責任者に左遷され、その翌年、完成の供養を行いますが、その日に急死します。これは藤原広嗣の霊によって殺されたと、歴史書は伝えています。

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    玄昉の墓

     玄昉は、彼らの朝廷からの排斥を訴え大宰府で反乱をおこして死んだ、藤原広嗣の霊によって殺されたと伝えられています。
     伝説によれば、746年、観世音寺伽藍完成とされる供養を玄昉が行っていたとき、急に雲が沸き、雷鳴とともに玄昉は天高く引き上げられました。その後、胴体は観世音寺に、首は奈良・平城京にある興福寺に落ちた、とされています。このため、ここは「玄昉の胴塚」とも呼ばれています。
     墓には、14世紀頃の石塔(宝篋印塔)が建っています。中世大宰府の石造文化を伝える文化財です。

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