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ストーリーの構成文化財 大野城跡

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【国特別史跡】
​1350年前、百済から亡命した貴族らとともに自然地形を生かし築造された古代山城です。百済の都・扶余の扶蘇山城になぞらえられ、水城等とともに百済系都城の姿を今に伝えています。ここから大宰府全体を一望でき、遠く玄界灘も望むことができます。

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大野城跡

 660年に唐・新羅に滅ぼされた百済国の復興救援のため、日本は朝鮮半島へ派兵しますが、663年、半島西岸の白村江で唐・新羅に大敗しました。
 半島に近いこの地域にはすぐに、664年に「水城」が、665年に「大野城」「基肄城」が築かれました。これらが後に、「西の都」の外郭となったのです。

 大野城は、北にそびえる四王寺山の山上に築かれた城砦です。
 東西約1.5km、南北約3km、約180haで、総延長約8kmに及ぶ城壁(土塁・石塁)で囲われた、日本最大級の古代山城です。大宰府が整備されると、有事には逃げ城として、また平時には稲穀や武器などを収める倉庫の集積地として機能しました。
 8世紀には宗教的に新羅と対抗するため「四王院」が置かれています。

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岩屋城跡の画像 岩屋城跡の画像1

岩屋城跡

 四王寺山の中腹にある、中世の城跡です。
 1557年、大内氏(山口)に代わり、大友氏(大分)が筑前(福岡北部)を支配するようになり、のちに高橋紹運が、ここ岩屋城や宝満城の城督となります。
 1586年7月、高橋紹運は、九州制圧をめざす島津氏(鹿児島)の兵2万と、わずか700余名で2週間あまりを戦い、全員討ち死にしました(岩屋城の戦い)。この間、豊臣秀吉が九州入りし、島津軍は撤退。秀吉の九州制覇のきっかけとなりました。
勇猛果敢な高橋紹運の戦いぶりは、後々たたえられました。
 この岩屋城本丸跡は、たいへん見はらしの良い場所で、ここから「西の都」大宰府を一望することができます。

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基肄城跡の画像 基肄城跡の画像1

基肄城跡

 660年に唐・新羅に滅ぼされた百済国の復興救援のため、日本は朝鮮半島へ派兵しますが、663年、半島西岸の白村江で唐・新羅に大敗しました。
 半島に近いこの地域にはすぐに、664年に「水城」が、665年に「大野城」「基肄城」が築かれました。これらが後に、「西の都」の外郭となったのです。
 基肄城は、大宰府政庁の南正面の山上に築かれた城砦です。総延長約6kmに及ぶ城壁(土塁・石塁)で囲われ、現在4ヶ所で城門跡が確認されています。有事の際の逃げ城として、また平時には稲穀などの集積地として機能しました。

 基肄城は「西の都」の設計にも深く関わっていたようです。
 政庁の中軸線は基肄城を縦断しており、これに沿って城内からの道が北斜面を下り、次田の湯(二日市温泉)を経由して朱雀大路を通り、大宰府政庁まで南北一直線で結ばれています。なお政庁から見ると、基肄城の二つの頂の間を、政庁からの南北道や政庁中軸線が通っていきます。これは唐の都長安・洛陽、奈良の平城京でもみられ、基肄城を一つの基準として「西の都」が設計されたと考えられています。

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